昭和40年9月18日 朝の御理解



付け焼刃の信心では取れやすい。どうぞ、その身から打ち込んだ信心をしてください。打ち込んだ信心をしようと、その身から打ち込んだ信心。その身から打ち込んだ信心とはどういうような信心を、打ち込んだ信心と言うのであろうか。折角、打ち込むなら、間違いのないところに、打ち込んでいけれる信心。ま、皆さんが、椛目にこうしてご縁を頂かれて、信心の稽古をなさる。その、信心の稽古を、いうなら、椛目に打ち込んでおられるわけである。その、椛目に打ち込んでおい出られるうちに、椛目と一つのもの、に、段々となってこなければそれは、椛目に打ち込んでいるとは言えんのである。一つのものになっていかなければ。幾ら10年、15年椛目にご縁を頂いておりますと言うても、一つのことになっていかない人がある。ま、例えば、えー、まあ、久富重雄さんところの、長女が、縁につきます時でした。先方のほうから、何月何日が日柄が良いから、何月何日にしてくれと、こう言うてきておる。もう、こっちは信心があるから、もう、日柄も何も言わんのですけれども、先方には信心がないから、日柄を言われるのです。丁度、それが、ここの御月次祭かなんかに当たっておった。それで、他の日ならどげんでんよかけれども、その日だけは、出来んと言うて、まあ、断られた。「ね」。これなんかは、椛目に一つになっていきよるから、椛目の何かそれに、差し障るときには、出来ないわけなんですね。椛目のことと、久富さんとの事が、別々じゃない、この一緒なんだと。そうでしょうが。ま、それは、ちょっとした事のようであるけれども、この、一つになっていきよるということは、そういうようなことだと私は思うのです。「ね」。それを言い換えますと、どういうことになるかというと、おお、自分というものを中心ではなくてです。いつも神様が中心であると。信心が勿論、中心をなすものである。その信心が中心をなすものということは、そのまま、椛目を中心にしての考え方。「ね」。そういう私はあの、信心を椛目と一つに成って行く信心であり、それに打ち込んでいくときに、はじめて、椛目的一つの、おかげというか、おかげが受けられる。どこまでも、自分と神様と、自分と椛目というものが、切り離された信心に、よし、それが打ち込んでいかれてもです。それは、私は、大したことはない。
同時に、打ち込んでいくということは、打ち込んでいけば、打ち込んでいくほど、信心の、味わいというものが深こうなるというものでなからにゃ出来ん。
自分の家内にする。自分の血の繋がりの子供に致しましても、限りなく、良くあってくれという願いを、持つのも、よその子なら、こげんな、やかましゅうは言わん。家の子だから、やかましゅう言う。一生連れ添わんならんと思うから、より良い夫婦であるために、やはり、家内に対して、主人に対して、その、ま、不足を持つ。よその嫁さんなら、不足は持たん。ただ、器量が良いなら、器量が良い。そこだけでも、あそこの奥さんはよか奥さんと。心がよかなら、ほんにあそこの奥さんは心のよか奥さんとこう言う。「ね」。それは、その、直接関係がないから。「ね」。椛目の場合でも同じこと。「ね」。お参りを椛目になさると。始めの間は、ま、海のものとも、山のものとも分らんから、ほんとに、少し熱心だと、とてもあの人は、熱心な信者としてから見る。ところが、いよいよこの人は、椛目に打ち込みなさるなあと、椛目の信心を身に付けていかれ、また、自分もそれを願うておられるという事になると、どっこい、今までのようなわけにはいかん。より良い信者に育ってもらわんならん為に、まあ、分りやすく言うならです。椛目の総代なら総代と言う御用でも承らせて頂くようにでもなればです。「ね」。椛目の総代。普通から言えば、もう、それで十分だろうけれども、椛目の総代さんということになりゃ、平の信者のようなこっじゃいかん。あすこも改めて欲しい。ここも、磨いて欲しい。いわゆる、完璧な総代という、その、それを私の心の中なら心の中に描いて、そういうふうに、その総代さんが育っていかれることを願う。神様は、私共がご信心に縁を頂いて、本気でおかげを頂こうとするときにです、信心が成長することを願われると同時に、かならず神様は、私共を、ためされねばなりなさらないというところに、神様が、行き詰まりなさる。「ね」。それは、氏子が願う、氏子が、本気でおかげを頂きたいといえば、言うほど、思えば思うほど、神様は、その人に対して、いわゆるその、試しなさらなければ、その、どうにも出来ないことになってくる。んなら、もう、いよいよほんとの、もう、信心があってもなかっても、神様の氏子には違いがないのだけれども、特別信者氏子として、お取立てを下さるために、特別の、いわゆる御期待を下さる。理屈は、おんなじ様な事じゃなかろうかと思いますね。「ね」。椛目にご縁を頂いておる。「ね」。それには、ちょっとした、それにふさわしくない、いわば、信心をしておったら、をれをおおめに見ておく訳には行かない。そこを、改める。改めてもらわんならん。そこんところを一つ分かってもらわんならん。分かって欲しいと。という願いが、それは、打ち込むことによって、段々、一つに成って行くにしたがって、その、思いというか、信心というものは、はっきり、ま、してくるわけです。
そこで、お互いが信心させていただきよってから、どうしてこの様な事が起こったであろうかと、思うたらもう、信心はとどまっておる。いわゆる、打ち込むこと、打ち込むということに、してないわけである。「ね」。これは、まだ、自分の信心が足りぬからだと。いうて、自分の信心を進めていけば、そこからおかげが受けられると。絶えず打ち込んでいると。絶えず打ち込んでおらなきゃ、それが、そう思われない。「ね」。これはまあだ、自分の信心が足りないからだと、いうなら打ち込んでいくと。そこから、おかげが受けられると、こう仰る。そこから、おかげが受けられるところからです。「ね」。また、段々、神様と一つに成って行くというか、神様に一つに成って行くことに近づいていく。けれども、また、次には、あー、これだけ信心するのにと、例えば、言うようなことに直面する。そこんところが、神様は、いよいよ、おかげを下さることのためにです。氏子を試しなさらなければならない、立場に立たれる。で、そこんところをまた、私共は、これではまだ信心が足りんのだと、こう、打ち込んでいく。そこからまた、次のおかげの飛躍がある。「ね」。どんなに、良い信心をしておっても、もう、それ以上打ち込もうとしない信心はつまらん。「ね」。もう、限りなしに、おかげを頂いていきたいと、言うためには、限りなく信心を進めていこう、限りなく打ち込んでいこうという、おかげを頂かなければ、ならんと思うのです。それにはです。どうしても、神様と一体になると。いわゆる、椛目と一つになると。という生き方にならなければ、それが続かんと。いわゆる、自分を中心としたところの信心からです、いわゆる、椛目を中心にしたところの、思い方、そういう信心。しかも、それにです、打ち込みが架けられるときにです。私は、かぎりなく、打ち込んでもいけれる、限りなく、神様と、椛目と一つになっていけれるところの、おかげの場というのが、出来てくるとこう思う。折角、打ち込ませて頂くなら、自分中心ではなくて、いわゆる、神様を中心にと、それを、まあ、一番適当なことばを持って言うならば、神様任せの信心ということになるだろうと私は思う。自分の、自分任せに神様をするというのではなくて、「ね」。いわゆる、どのような場合でも、神様任せの信心。神様負かせということは、そのまま、親先生任せの信心。そこに、私は、氏子が神様任せなら、神様が、氏子任せになって下さるという、一つになるものが頂けてくると、こう思うのです。「ね」。ここに、徹底していくこと。これに徹していくこと。「ね」。自分と、神様とを切り離しておいて、そして、神様の信心に、一生懸命に打ち込んでいるというのは、「ね」。言うなら、まあ、他人事に打ち込んでいるようなものじゃ。だから、そう心から打ち込めるはずがなかろう。「ね」。けれども、そこに、本当の親子一体というか、神様と一つになると、御広前と一つになるという信心であったら、「ね」。これで良いということはない。限りなく、打ち込んでいけれる、「ね」。付け焼刃の、信心では、取れやすい。人から誘われての、しょうこと無しの信心では、取れやすい。その身から、打ち込んだ信心をせよと。打ち込んだ信心とは、まあ、自分を中心にした信心ではなくて、いつも神様を申し上げたところの信心。ほんなら、神様を中心に申し上げた信心とは、私は、いつも、素直な心を育てていくことに、勤めさせていくと同時に、その、素直な心でです。いつも神様任せにならせて頂くという信心。どんな場合でも、神様任せで、信心を進めていくという信心。そこに、私は、神様が私共任せになってくださるような、限りないおかげが頂けてくるものと、こう思うのです。これは、何十年信心をしておってもです。「ね」。自分の都合の良いときだけは、神様任せになるけれども、でない場合は、もう自分で、いわば、自分の考えで、信心を進めていくというような信心ではです、取れやすい。よか時だけは、良いけれども、「ね」。どうでも一つ、これは、私と、総代さん方と、「ね」。私と皆さんというものがです。かならず、そこだけのことではないですけれども、「ね」。椛目の信者と。あの人は、椛目の信者であるというふうに、人から見てもらうならばです。もう、ほんとに、椛目の信者、家の信者でございますと言うてから、誰から見てもろうても、どっから見ても足ろうておる信心を、神様が願われるのであり、私が、願うのであると。ですから、他人事では無しにです。やはり、そげなこっではできんじゃ無いかという、ま、厳しい教導にもなってくる。そのためには、どうしても、私と、皆さんとが、一つになって行きよらんと、それがなかなかいえないと。「ね」。どうぞ一つ、その身から打ち込んだ信心。打ち込んだ信心させていただいて、打ち込んだ、どのような場合でもです。どうしてこの様な事がおきてくるだろうかというよな時に、直面してもです。「ね」。そのこととは反対に、自分の心の中には、有難いというようなものが、育っていくような信心。そういう信心が、私は、打ち込んだ信心をさせていただく者の、体験させて頂くもの、幾ら打ち込んでおるようにあってもです。これだけ信心するのにと、というて、ま、意気消沈したり、寂しかったり、信心がおろそかになるようなことでは、それは、貴方の信心は付け焼刃の信心だと、思われてはならんと思うですねえ。その身から打ち込んだ、信心にならせて頂かねばならんと思わせていただきます。どうぞ。